和噺

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自己の範囲の噺

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        和噺   
                         R2/01/04
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我が家は、小さな山の中腹にあって、我が家の上の方は、スギやヒノキの植林地になっています。といっても、売ってお金になるような木ではなくて、間伐もされておらず、木々は細いまま密集して伸び、鬱蒼と葉っぱだけは茂るので日光が地面に当たらず、下草が生えません。
 
僕は、この林を、自然林に戻したいと思って、間伐とかを行っています。自然林になれば、もっと下草が生えて、土壌が肥沃になります。昆虫や鳥類、哺乳類も増えるので、自然保護活動に当てはまるものだと思うんですが、別に自然保護をやりたくて、やっているわけではないんです。
 
それは、自分の生活のためです。というのは、我が家では飲料水を、その山から取っています。小さな沢があって、そこからホースで水を引いてきているんですね。その水、元はと言えば、雨水です。山に雨が降って、それが土壌に染み込んで、じわじわと湧き出してきて、沢になって、その沢から水を貰っているわけです。
 
もし、山の植林が、誰にも手入れされないまま荒れていって、土壌も貧相になっていけば、土壌の保水力は弱まります。雨が降っても、それをため込むことができず、降った時に、一度にだーっと流れてしまう。で、降らない時には、逆に沢が枯れる。自然界で、雨の降り方は一定じゃありませんが、土壌が肥沃であれば、水の湧き方は、ほぼ一定になるんです。で、そのほうが僕にとっては都合が良い。洪水も渇水も起こらないということですから。
 
つまり、この山の自然状況は、僕の生活に密接に関わっているわけです。だから、スギの間伐をしたり、山の手入れをして、健全なというか、僕にとって都合の良い状態に保とうとするわけです。僕は、飲料水を山に頼っているから、山の土壌の問題は、僕の問題です。僕の個人的な問題、自己の一部なのです。
 
このように、僕は、自分の周りの森や田んぼは、自分の一部だと思っています。いや、普段からそう意識しているわけじゃないけれども、例えば、うちの沢の上流に産廃処理場ができるとなったら、大反対します。だって、うちの水が汚染されると思うから。だけど、フィリピンのリゾートのゴミが集まる島の問題は、あらまぁ大変なこととは思うけれども、別に大反対はしません。だって関係ないことだと思っているから。この場合、フィリピンの島は、僕の自己に含まれていないのです。
 
どこまでが自分に関係のあることで、どこからが自分に関係のないことか。その範囲は、人それぞれ違います。それが狭い人ならば、親戚縁者や親兄弟でも、自分のこととは思わないかもしれません。親が死のうが別に悲しくもない。だって、もう自分は経済的に自立しているし、特に関係ないから。そりゃ、そうなんです。それもまた正しい。ただ、多くの人は、親兄弟ぐらいは自己の範囲に含めるから、親兄弟が死んだら悲しいのです。少なくとも、知らない外国人が死ぬよりは悲しいのです。
 
最近、話題の人で言えば、グレタさんはこの範囲が非常に大きいのでしょうね。地球のことを、自分のこととして考える。僕が、沢の上流に産廃処理場を作られるのと同じぐらいのテンションで、地球温暖化に怒るわけです。親兄弟ぐらいの範囲ではなく、将来の子孫までも含めて、自分のこととして考えられる。だから、親兄弟が殺されるのと同じぐらいの悲しみで、子孫が環境問題によって被害を受けることに、悲しみを感じるのでしょう。
 
まぁ、多くの人は、そこまで自己が広くないですから、グレタさんが地球温暖化に本気で涙を流して怒るのを見て、おかしな女の子やで、と思うわけです。それは、親兄弟を殺されても何にも思わない人と同じような不気味さをもって、感じられるのではないでしょうか。自己の範囲の不一致です。あまりに、自分の常識とずれている自己の範囲をもっている人に対して、理解し合えない怖さを感じるのだと思います。
 
ちなみに、ほんのちょっと、常人より自己の範囲が広い人は、尊敬されます。なぜなら、一般の人にとって、自分も、その人の自己に含まれる可能性があるからです。つまり、愛されていると感じるわけです。電車でお年寄りに席を譲る人は、そのお年寄りを、自己の一部として見ている。で、多くの人は、将来、妊婦や障害者やお年寄りの立場になることは、あるわけで、その可能性のある自己が、愛されている。だから、そういう人に好意を抱く。席を譲るのが良い人だというのは、そういうことです。
 
マザーテレサやイエスキリストが尊敬の対象になるのも、同じことです。自分と同じ、人類を愛する人を、人は愛します。もし、マザーテレサやイエスキリストが自分の隣近所にいたら、きっと、自分のことも愛してくれたと思うから、人は彼らを愛し尊敬するわけです。
 
だけど、例えばコモドオオトカゲの保護のために全財産を寄付した人は、普通は、良い人だと思われません。だって、私たちはコモドオオトカゲではないし、その人が将来的に私たちに愛情をかけてくれるとは、思えないからです。私たち個人が、その人の自己の範囲に含まれていない、つまり、愛されていないと思うからです。
 
どこまでが自己の範囲か。この自己の範囲が大きいということは、多くの人や物を愛しているということであり、逆に愛されるということです。自己の範囲が狭いと、例えば、自分一人の範囲でしか愛せない人は、人からも愛されにくいのです。でも現代社会は、自分は自分、人は人、という論理で成り立っているので、自己が狭いのが当然だと思われています。しかしそれは、世界から愛情の量を減らすことであり、よろしくないことだと思うんです。
 
せめて、目に見えるものぐらいは、自分に関係あるものだと思って生きてみたいものですね。少しずつ、自己の範囲を広げていって、多くのことを、自分に関係のあることだと思って生きてみると、愛されやすいし、幸せに生きられると思います。結局、自分がされたいことを、自分からするべきであるという、何千年前から変わらぬ人間界のルールは、いまだに有効だということです。また明日。チャオ!
 
──【おまけのはなし】────────
 
今日も今日とて朝から用事が立て込み、午後配信。当日の午前配信に限界を感じている、今日このごろ。そういや、ゴーンさん、Netflixと契約していたんだってね。さすがだね。ドリフの風呂の歌、いい湯だなアハハン、の替え歌で、ゴゴンゴ、ゴンゴンゴン、はぁレバノンノン、まで思い付いたんですが、あとの歌詞が良いの思いつかない。続き、誰かよろしくお願いします。
 
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