和噺

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責任の噺

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        和噺   
                         R2/01/03
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おはようございます。僕です。「責任」について考えてみます。なんでしょうか、箱根駅伝をやっているからでしょうかね。そんなことについて考えてみるのも一興かなと思ったのです。あけましておめでとうございます。正月三日目、松の内でございます。
 
まず、フィーリング的な結論から言えば、責任って好きじゃない言葉ですねー。なんでしょうか、よく意味が分からない。で、今までの人生経験からして、これだけ見聞きしてきて意味が分からないものって、おそらく、本当に意味が無いのだろうな、と思っています。だから、意味が無いのでしょう。まずそれが、フィーリングの結論。
 
例えば、不祥事を起こした政治家が責任をとって辞める。部活で誰かがミスをしたら連帯責任でチームみんなで腕立て伏せをする。イラクに行って殺されるのは自己責任だ。ふうむ。この3つに共通する「本来の意味」が見えない。「罰則」は近い気がするけれども。おそらく、日本には古来より切腹とかで自罰を行うという文化があり、それが近代になって、欧米の概念の責任=responsiblityとミックス、変形したものが、日本の「責任」なんだとは、思います。ミックスしたから、意味がごちゃまぜ。
 
責任を英語にすると、responsibility。これは、どういう意味か。response +abilityです。responseはレスポンス、「応答」という意味ですね。コール&レスポンスです。胸毛タンクトップのイギリス人が「エーオ」で、客が「エーオ」、胸毛が「エオエオエオエオエオ」客がエオエオエオエオエオ」、あれです。レスポンス。で、アビリティは、何かをすることが可能であるということ。つまり、responsibilityとは「応答できる、答えられる」という意味になります。
 
つまり、何か事件やトラブルが起きた。その時、この事態について、答えられる人は「responsibility」がある、ということです。その事態を把握していた、どうしてこうなったか知っていた、つまり、その人は何か、その事態について、やりようがあった。「自由」があった、ということです。自由とは、選択可能性です。選択可能だからこそ、どうしてこうなったか、答えられる。つまり、自由と責任とはセットである、ということです。
 
いや、ここで責任と言っちゃうと話がややこしくなるから、liberty(自由・権利)とresponsibilityという概念がセット、裏表である、ということでしょう。自由の根っこは、古代ローマの「奴隷」と「自由民」の概念があります。自由のない奴隷にはresponsibilityは無く、そして自由民(市民)となったときには、彼は自由意志で行動を選択できるのだから、responsibility、つまり、どうしてそういう行動をとったか答えることが可能である、という概念です。
 
という概念・文化が、近代日本に輸入されたときに、訳語としてresnponsiblityに「責任」をくっつけたのですが、この二つの言葉の本来の意味というのが、ずいぶん違っていた。日本で言う、詰め腹を切るとか、責任をとるというのは、「答える」のではなく、逆に「黙って罰を受ける」というものです。死ねば許される的なこともあり、色々な問題を、切腹することでチャラにするというのが、日本の「責任をとる」です。そこでは、答えないでOKなんです。黙って責任を取るのです。
 
欧米的な問題解決の枠組みにおいて、resnponsibilityは必要なことでした。なぜ、この問題が起こったか、resnponsibilityのある者に答えさせて、問題が起きた原因を探るわけです。だけど、その問題解決の枠組みをコピーしたのに、resnponsibilityの概念のコピーが不完全どころか、なんか全然違うものをコピーして来ちゃったから、誰かに「責任」をなすりつけて問題解決したことにする。でもその場合、なぜその事態が起こったかの説明はなされていないから、問題解決には至らない。だから、同じ失敗が繰り返されるのです。
 
今からでも、せめて「応答義務」ぐらいに訳すべきだと思いますけどね。「桜を見る会について、首相には説明責任がある」というより「応答義務がある」と言ったほうが正しい。そうすると、「責任をとって辞めます」という解決策が正しくないと分かるから。何も言わないで辞めたら、応答義務を果たしていないやん、と突っ込まれるから。
 
まぁ、そもそも何で日本が「辞めて責任を取る」という文化になったかというと、江戸時代に、社会を変える必要がなかった、むしろ変えることは悪いことだった、だからだと思います。それはそれで、社会の安定性があるから、良いことなんです。何か問題が起きたら、個人が責任をとって辞める、で、新しい人、それは、その辞めた人の息子かもしれないけれども、それでいいんです。生贄を捧げたみたいなことで、よし、これで水に流してリセット、みたいな感覚になるわけです。
 
実際、ある人が責任をとって辞めても、皆が「そいつが悪い」と思っては、いないでしょう。今の日本社会だって同じで、誰かが責任を取って辞めたといっても、その人が100%悪いわけではないなんて、みんな、うっすら分かっているわけですよ。なのに、その人が「責任を取って辞めた」ならば、むしろ、いさぎよい、という風潮です。軽く自殺したようなものですから。で、ほとぼりが冷めれば、再び日の目を浴びることも出来るでしょう。それが日本の「責任」であり、ほんと、神に捧げる生贄なんですよ。
 
だけど、社会の変革を必要とした場合、というか、現代では変革しないと企業なり国も、競争社会についていけないので、きちんと応答義務を果たした上で問題解決を図るのが良いんですけれども。だから、「責任を取って辞めろ」というのは、何の問題解決にも至らないということです。でも、そもそもの目的が、何かを変えたいのでなく、面子を変えて同じことをしたいだけならば、それでいいんですけどね。
 
そんな感じ。さて、責任あるタスキを繋ぐ大学生をテレビで見ましょうか。正月、駅伝がこれほど人気のコンテンツになるのは、責任を負って走る若者に、無責任に同情できるからです。日本人の心にビビッドに響くのでしょうね。で、僕も日本人ですから、鶴見中継所でタスキが途切れるのを見て、心を痛めるのです。残り物のおせちを食べながら、コタツに入りながら、心を痛めるのです。だって日本人だもの。みつを。
 
──【おまけのはなし】────────
 
 昨日はモンゴル人を召喚し、ヤギを屠り、ヤギパーティー。自宅でのと殺許可は取っているので法的にも問題なし。てか、自分ちのヤギを自分で食べるのに許可が要るって、何やねんと思う。法律、変えたいなー。いちいち、許可を取るのも面倒くさいし。ヤギ団体つくって、ロビー活動すっか? 沖縄選出の議員さんとか、賛同してくれるかな。
 
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