和噺

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結婚の噺

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        和噺   
                         R1/12/24
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結婚について考えてみます。おはようございます。クリスマスイブですね。皆さん元気ですか。僕は元気です。
 
結婚。そもそも、結婚というのは社会制度なわけでして、共同体の無いところに結婚という制度も存在しない。個人が勝手に生きて、自由に子供を作って、仲が良ければ二人で育てて、別れたならどっちかが育てて、みたいな。結婚という制度が無くても、子供は生まれるし、育てられる。じゃあ、結婚というのは何のためにあるのか。
 
そもそも共同体の人員交換が自然発生的に行われており、それを、後に明文化したものが結婚だと思います。長年の経験から、近親相姦はヤバみだよねって人類が思って、じゃあ、隣の共同体とかから、誰かをもらうか、と。代わりに、こっちも誰かを差し出すか、と。それが男か女かは、絶対的な理由がある話ではなく、ケースバイケースですが。女性が家長になり、男性が婿としてやりとりされる社会だって、世の中には、ありますからね。
 
だから、結婚すると苗字が変わるわけです。その家のものになったよという、所有権の移転みたいなことですよね。結婚というのは、大体において、そういうものだった。日本で言えば、女性が、男性側の共同体に加わるっていうことですよ。オリックスから楽天にトレードされるようなものですよ。
 
だから、そりゃ本人の好き嫌いもあるけれども、基本的には、偉い人が決めるわけです。両親とか、祖父母とか。あそこの家だとバランスが良いから、お前、あそこに嫁に行け、と。そりゃ、相手の顔を見て、あまりに嫌だと本人がトレード拒否権を発動させることもありますが、基本的には、そのトレードを組む両親側も、うん、あそこだったら良いだろうと思ってやるわけですから、そんなに困った自体は起こらなかったんですよね。組ませようとしているんだから、無茶な縁組を、そもそも行わないわけですよ。
 
という結婚制度があったのですが、さて、戦後ですな。個人の権利、個人の判断というものが、価値を持つようになった。というか、価値が上がった。爆上げ。個人という価値観のインフレ。同時に、共同体という価値のストップ安です。だけど、制度の変更いうのは、社会の変化より遅いものですから、結婚という制度自体は変わらずに残っている。じゃあ、そこで結婚に至れる個人の感情とは何ぞや。恋愛感情です。好きだから結婚する、という新たな物語が生まれました。
 
好きだから結婚するって、今の社会だと、当たり前も当たり前すぎて、そこに疑いを挟むことも無いでしょうが。これは近代に成立した、新たな物語なんです。昔は、そうではなかった。惚れた腫れたと、結婚とは、別のことです。
 
そもそも「惚れる」という漢字も、惚けるという字ですからね。良い意味では無いんですよ。惚れた病、みたいな。病、ですから。恋煩い、ですから。一時の気の迷いとか、精神病みたいな扱いだったのかもしれない。ただ、戦後に、アメリカンな価値観がやってきて、恋愛というものは良いものですよ、惚れるというのは良いことですよ、という価値観を育てていった。
 
気軽にアメリカンと言っちゃったけど、そもそも、恋愛が良いという価値観は、どこから来たのだろうかね。誰が「発明」したんだろうね。シェイクスピアがロミジュリで発明したんか? そりゃ、そういう「気持ち」はあるけれども、それが社会的に「善」とされるかは、別問題なんですよ。現代人だって、誰かを「ぶっ殺したい」という気持ちはあるけど、それを発露させることはダメでしょ。だから、ゲーム内で発揮することでガス抜きするわけでしょ。物語では認められても、社会では認められていないでしょ。
 
人間が自然に生きていれば、いろいろな感情が出てくる。勉強なんてしたくない、寝転んでいたい、大声で歌いたい、惚れた相手に好きだと言いたい。その、全ての感情が社会的に満たされるということは、無いんです。で、時代や場所によって、どの感情を「善」として、社会に組み込むかは、違います。現代日本だと「好きな相手に好きと言う」は認められているけど、「面倒くさいから会社を休む」は認められていない。恋愛感情というのも、数ある感情の中の一つに過ぎないのです。
 
だけど、どこかで、たぶんアメリカで、恋愛というのは良いものだ、という価値観が生まれた。なぜなら、アメリカというのは移民社会で、本土(ヨーロッパ)の共同体から切り離された人たちが築いた社会だからです。そこでは、新たなフロンティアを獲得するため、どんどん、ニューファミリーが西に向かって進出していく。その夫婦の絆の元になるのは「恋愛」しか無いよね、と。そういうことだったんじゃないのかな。
 
で、その価値観が、戦後日本に自然に入ってきたのか。それともGHQが意図的に入れて育てたのか。「家(いえ)」という日本の共同体があると統治しにくくなるから、思想の面からも変えなきゃいけないよねってことで、恋愛という価値観を持ち込んできたのか。その辺は知りませんが、ともかく戦後に、家という価値観は古いもので、お見合いとかダサくって、恋愛結婚こそが素晴らしいという価値観にガラリと変わった。変えさせられた。そう思います。
 
問題なのは、一時の惚れたという感情が、そんなに永続しない場合が多いということです。そりゃ、恋愛感情もあって、価値観も同じぐらいで、生活レベルも同じぐらいで、両家の仲も良くて、というのなら最高ですよ。だけど、普通は、どこかが欠けているわけですよ。完璧なマッチングなんて、レアケース。
 
日本の場合は、そこを長年の経験から、「惚れた腫れた」の恋愛感情で結婚するよりも、周りが、「両家の仲の良さ」とか「経済レベル」とか「性格の一致」とか「年齢差」とかのバランスを第三者的に見て、よし、このぐらいなら上手くいく確率が高いだろうというものをマッチングさせた方がうまくいくよね、といって「お見合い」をさせていた、と。そういうことなんです。
 
そもそも共同体(家)のためにあった結婚というシステムを、そのまま、個人の結びつきに流用しようとしたけど、うまくいかなかった。じゃあ精度のほうを柔軟に変えればいいのかもしれないけど、日本の特性として、法律は変えずに解釈を変える、みたいなところもあるから、この変革もうまくいかない。でも、今までのみんな、両親も祖父母も結婚してきたんだし、自分も結婚しないといけないんじゃないかという、プレッシャーもある。
 
今を生きる若い個人にすれば、結婚で幸せになったという事例も、あまり見ないし、だけどしなきゃいけないプレッシャーはあるし、でも好きでもない相手と結婚するのは「良くないこと」とされているし。そうやって、いつか恋愛感情が盛り上がり、生活バランスもとても自分と合うような、幻想の相手を探し求めたまま、見つからずに、時だけが流れていく、と。難しいね。大変だね。ただ、そういうことだから、あなたが悪いわけではないんです。社会が悪いんです。そう思う。また明日。チャオ!
 
──【おまけのはなし】────────
 
Mー1のミルクボーイの漫才、youtubeで見ました。だって高知で放送していないんだもん。すごくない? テレ朝が無いから、Mー1が見れないんだよ、高知県。もう、基本的人権の侵害だと思うんですけど。憲法で定められた「最低限の文化的な生活」にMー1の視聴は含まれないんですか? どうなんですかね。裁判起こして、はっきりさせてみましょうか。
 
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