和噺

まぐまぐで配信中のメルマガ「和噺」の過去ログです

死の噺

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
        和噺   
                         R1/12/23
───────────────────
 
今日って平日なんですね。上皇陛下御生誕記念日とかじゃないんですね。なんか小学校の終業式が12月25日だから、あれ、おかしいなとは思っていたんですけど。ほら、今までって、23日が祝日だから、大体は22日に終業式やって、そのまま冬休みって流れだったでしょ。天皇誕生日が無くなって、ちょっと2学期が伸びましたね。
 
しかし、12月25日に学校があるっていうことは、クリスマスプレゼントの話題が教室で繰り広げられるってことだよね。プレゼント何だったとか、お前んちそんなショボイものなのとか、サンタさん実在論争とか、そういう、クリスマスの情報交換が小学校で行われそうですよね。タイミング悪いよねー。クリスマスプレゼントの来た朝に、学校行くんですよ。ありえない。その辺の気遣いが欲しいですよ。サンタの幻想を1年でも伸ばしてやろうという、大人側の努力をしないといけないと思うんですよ。
 
なんて、ほのぼの話題から始めてみましたが、「死」について話してほしいというリクエストがあったので、書いてみます。おはようございます。僕です。寒いですね、いよいよ冬本番だなと思います。でも昨日、モンゴル人と話していたら、「今、モンゴルはマイナス20度」とか言っていたので、うん、四国は暖かいなと思いましたけど。
 
で、死。一昨日ぐらいに、日本文化には「死」の概念は無かったんじゃなかろうか、って話をしましたが。今日は、身近な等身大のレベルでの死について考えてみます。僕はごく普通の現代人ですので、まぁ、死んだらおしまい、と思っていますよ。天国も無いと思っているし、生まれ変わりも無いと思っていますよ。残念ながら、死んで終わり。皆さんと、たぶん似たり寄ったりの、死んだらそこで終わり、その先は何も無いだろうという、通常の「死」の概念です。
 
子供の頃から、人並みに死ぬのは怖かったですけどね。死んだらどうなるんだろうとか、そんなこと考えたりして。普通に恐怖ですよ。まぁ、今は、しょうがないなと思っていますけどね。死にたいとは思わないし、永遠に生きたいとも思うけれども、まぁ、現時点での「死」に対する正しい態度としては、考えないことじゃないかな、と。だって、死んだらどうなるとか、分かるわけないし、たぶんどうにもならないから、考えてもしょうがない。だから、気にしない、が正しい答えかなと思います。
 
うーん、違う方向からの話をしましょうか。例えば、もし、病気で余命1年だと言われたら、どうするか。その場合、まず、余命1年ってのは「現状のままで進んだ場合、あと1年で死ぬ可能性が高い」ということだと思うから、今までと全く違う生活をすることが良いでしょうね。仕事も、生活も、ガラリと変える。住む場所も変える。そしたら、違うライフスタイルになりますから、体も勘違いすると思いますよ。あ、このライフスタイルだったら、全然いけるやん、って。
 
元気なフリをする、そうすると元気になる。元気な人が行くところ、例えば、イビサ島とかに行ってみたり。パリピですよ。そうすると、体が、あれ、元気やん、って思うと思うんですよ。そしたら1年で死ぬとか無いでしょ、って思う。病は気からの逆バージョン。健康は気から、でもあるという方法。もし余命1年とか言われたら、そんなことをするんじゃなかろうか。
 
死を受け入れない、ってこと。死について考える暇があったら、それよりも、今日1日をしっかりと活動することを考えた方が良いと思いますよ。葬式の指示とか、エンディングノートを、元気なうちからしっかり準備する人もいますが、なんか、そういうのって、むしろ早く死んじゃいそうで嫌ですわ。よく、自分の墓とか建てる気になるな、と思う。死んだ後に迷惑をかけたくない、という気持ちからでしょうけれども。
 
墓を建てたり、葬式の指示をする人の気持ちは、「自我」が「肉体」よりも、かなり大きくなっているんですよ。まぁ、それは普通のことですけどね。山田太郎さんという人がいたとして、その山田太郎さんのセルフイメージを守るため、社会的イメージを守るために、それが肉体の死後も永続するために、墓を建てたり、葬式の指示をするわけですよ。自我は肉体よりも拡大して、自我を壊さないために肉体をわざと壊す(死なせる)ということも、あるわけです。
 
よくある話ですよ。というか、自殺のほとんどは、そうじゃないでしょうか。自我の統一性を守るために、自殺するんです。ブラック企業過労自殺するとかは、「真面目に働いている自分、言われたことは必ずやる自分」というようなセルフイメージがあって、それを守るために、懸命に働くわけです。もし、仕事を放り投げたりしたら、それは自我を壊すことになる。それよりは、肉体が壊れても、自我を守った方がマシだということですね。
 
つまり、死といっても、肉体の死と、自我の死は、別物だということです。何か激烈な体験をして「生まれ変わったような気がする」とかいうのは、その体験により、今までの自我が死んだんですよ。だけど、肉体は生きている。だから、生まれ変わったような気がする、ということです。逆に、自我を生かし続けるために、肉体を死なせたら、たぶん生まれ変わらない。と思う。自殺する人の一部は、生まれ変わりを狙って死ぬのかもしれないけど、たぶん、生まれ変わらない。
 
んとね、死にたいと思っているときは、普通は「私のセルフイメージ(自我)を守るためには、このままでは続けられない。だったら、肉体を死なせてしまって、せめて自我は守りたい」ということです。そして、人間にとって死というのは、大抵は、自我の死のことです。例えば、事故で脳死状態になったら、肉体は生きていても、自我は死んでいるわけで、これを我々の社会は「死んでいる」と判断します。
 
死んだことないから知らないけど、たぶん、寝落ちするのと、そう変わらないんじゃないですか。で、死んだら、もう何をすることもないですから、死んだ後のことなんて、そんな気にかけない方が良いですよ。どうにかなりますよ。今、この瞬間に、総理大臣が死んだって、世界は普通に回りますから。だから、死のことなんて考えないで、好きなことをした方が楽しくて良いですよ。また明日。チャオ!
 
──【おまけのはなし】────────
 
今日は朝からヤギ関係の話。ヤギを使ったビジネス、イベント、できたらモンゴル人も交えて。そんなことを話し合い。10年前と比べてヤギの価格が上がっているとか、放牧すると肉が硬くなるから、肉を出荷するためには去勢オスの1歳ぐらいとか、そんな話を聞く。面白い。そんなこんなで、午後に帰宅したところです。ぷぅ。
 
──★バックナンバーはこちらから───
       Twitter @kato_nodoka
       Instagram katonodoka
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━