和噺

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仏教の噺

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        和噺   
                         R1/12/15
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おはようございます。今日も今日とて、お昼配信を逃していますよ。朝から公園の共同清掃、空き家清掃、移住者のお世話、などをしていたら、あらまぁ午後3時。何を書こうかなとEvernoteのネタ帳を見直しておりました(ちなみに、この文章もEvernoteで書いています)。そしたら「感情は共同体のためにあり、それを超えたのが都市文化の仏教」というメモがありましたよ。いつ書いたか忘れたけど、いいこと言うじゃん自分、と思いまして。上記の一文を、どういう意味か解説しようと思います。
 
感情とは、何のためにあるのか。僕は、共同体、つまり他人との関係性を築くためのあるものだと思っています。もし人間が、社会的な動物ではなく、基本的に一人で生きる動物であるのならば、これほど複雑な感情は必要ないのです。人の顔色をうかがったり、言葉に傷ついたり、ちょっとした言動に喜んだり。そんな、面倒くさい感情なんて、もし人間が社会生活をいとまないのであれば、必要ないのです。
 
あらゆる苦悩は人間関係に由来する、という言葉を、どこぞの偉い人が言っていた気もしますが。それは大げさだとは思いますが、ただ、現代日本に限って言えば、ほとんど当たっているかもしれませんね。衣食住の心配が無いのですから、ほぼ全ての苦しみは人間関係なのです。病気の苦しみもあるだろうけど、人間関係のストレス原因の病気も多いですしね。まぁ、人間関係を「どうでもいい」と思えれば、苦しみの99%は無くなるんじゃないでしょうか。
 
そういう面倒くさいこと、この上ない「感情」というやつですが、当然、必要だから在るわけです。DNAは必要だと思っているのです。それは、共同体を一体化するため。人間が集団を作り、お互いの感情を擦り合わせて、多くの個体がまぁまぁ満足できるような共同体を作る。その方が人間は強くなる。そのために、感情は必要なのです。共同体のルール、つまり「常識」から外れた行為をする人に対して、我々は不快な感情を示し、それを相手も受け取ります。そうやって、共同体の意思統一が成し遂げられていくのです。
 
さて。共同体が共同体として世界に存在していた時、この、人間の感情システムは、うまく機能していました。本能のままに動き、それで世界はうまく回っていた、狩猟採集時代です。このバランスが崩れていったのが農業であり、交易の発展による都市化です。そういった都市国家が世界中で誕生したのが、数千年前でして、その時期に、聖書が書かれたり、キリストが磔にされたり、ブッダとか孔子とかも出てきているわけです。
 
キリスト、ブッダ孔子などが、ほぼ同時代なのを、すごい偶然みたいに解説する本もありますが、僕は、これは農業の伝播によって、ほぼ同時代に大きな都市国家が成立して、都市国家が成立したら、今までの「本能」に頼っていた文化ではない、違う行動規範が必要となるから、そこで「思想」が登場した、という流れだと思っているので、偶然では無いと思っています。思想とは、理性で築き上げた行動規範ですから、全く違う文化の人でも、共通に認識できるのです。
 
「一族の神話」でしたら、うちのご先祖は熊だったんだよ、みたいなのでOKなんです。でも、熊がご先祖の一族と、狐がご先祖の一族が、隣り合って住むのが「都市」ですから、そこでは、新たな物語が必要なんですよ。それは、神話よりメタな、より広い視点のものでなきゃいけないんです。それが思想です。
 
で、中でも、ほとんどの苦しみは人間関係によるものだから、そういうのを気にしないでいれば、苦しいことなんかなくなるじゃん、ってのが仏教でして。衣食住、全てが完全に満たされる王様(ブッタは元々は王子様なので)という立場でも、苦しみはあるってことに気づいたゴータマ・シッダールタさん。なんか、立場的には現代人に似ていると思うので、仏教は現代人が苦しみから抜け出せる、一つの回答だと思いますよ。
 
仏教ってのは、個人がどうやって苦しみから抜け出すか、という哲学的なやつですから。いわゆる「宗教」のような、神様がいて、それを信じなさい、信じれば万事OK的な考えとは違います。ただ、僕は、そもそも人間は集団でいた時にこそ幸福を感じられると思うので、共同体を形成するという方向の方に、未来を感じますけどね。
 
だから、仏教において感情は排除されるべきものなんです。心を動かされるのは、苦しみに繋がるから。で、感情を生み出してしまう共同体を否定するから、家族を否定、つまり出家するわけですよ。それが、仏教に出家が必要な理由。ガッテンしていただけましたでしょうか? ガッテン!ガッテン!(^。^)
 
っていうのが、メモ書きの「感情は共同体のためにあり、それを超えたのが都市文化の仏教」ってことです。いや、でも都市文化の行き着いた先に、現代社会があって、そこで生きる人々が幸せかっていうと、そうでもないのでね。仏教で悟るってのは、養老孟司さんの言う「バカの壁」的なやつで、人間は入力されたものに「掛ける幾つか」をして、出力する、その掛ける幾つかの係数が0ならば、出てくるものは0である、と言う話なんですが。全てに掛けるゼロをするのが仏教的アプローチです。
 
仏教は、苦しみへの個人救済にはなるんだけど、多くの人に対するアプローチとなると、どうしても共同体的な感じになっちゃうよね。ブッダも苦笑いしていると思いますが。仏教に宗派があるとかね、意味不明ですから。だけど、人間は本能的に共同体を求めて、我々は〇〇である、という風な安心感を得たいのでね。どうしても、なんとか宗とかになるんだよね。ま、そんなところ。また明日。チャオ!
 
──【おまけのはなし】────────
 
餅の処理に困る。秋祭りの餅まきで、子供達が拾ってきた餅が、数十個。そして昨日の神祭で、持ち帰ってきた餅が、たくさん。餅だらけ。どうやって消費するかな。昔の人からすれば贅沢すぎる悩みですね。
 
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