和噺

まぐまぐで配信中のメルマガ「和噺」の過去ログです

羊飼いの噺

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
        和噺   
                         R1/09/21
───────────────────
 
何日か前に書いたけれども、池袋交通事故の話。厳罰を求める署名が36万人あつまった、というニュースを目にしました。システム全体の不具合を見ずに、個人に責任を押し付けて、無かったことにしようという感じに見えますね。おはようございます。僕です。寒いです。なんか、秋を通り越して冬が来ている感じがしますわ。薪をまだ用意していないというのに! ただいま、スペイン人が斧を持って頑張っておりますが。
 
池袋交通事故に限らず、いろいろなことが「個人の責任」に、最終的には行き着いてしまって、その個人を断罪することにより、終わったと思ってしまう。だけど、多くの問題は個人の責任以上に、全体のシステムの問題であるから、そのシステムが手付かずである限り、また同じ問題が噴出する。
 
こういう場合、「日本は〜」という枕詞で語るのは、あまり良くないんだけれども、便利だから語りますよ。良くない、っていうのは、僕が比較対象にできるのは欧米文化ぐらいであって、イスラムやアフリカ諸国やパプアニューギニア先住民の文化は知らないから、そことの比較ができない状態で語るのは良くない、とは思うんですけれども。ま、便利だから使います。小さいことは気にすんな、わかちこわかちこ。
 
日本は昔からーー象徴的なのは戦時中ですがーー個人が頑張ればどうにかなる、という思想があります。竹槍訓練のマインドです。一人一人の精神が上回れば、なんとかなるはずだ。しかし、もちろん物質的な物量の方が強いわけです。不眠不休で気合を入れて頑張る人よりも、きちんと8時間睡眠をとって体調を整える人の方が、高いパフォーマンスを出すわけです。竹槍で飛行機を落とせるわけがないんです。
 
欧米文化の場合は、何かの問題が起きた時に、これはシステムの問題である、管理の問題である、という思想に行き着きやすいと思いますーー少なくとも、日本と比較した場合には、そっちの割合が高いと思う。そのベースにあるのは、家畜文化です。家畜を飼っていて、何か問題が起きた場合、それは家畜の問題である、とは言わないわけです。飼い方が悪かった、だから問題が起きた。人間社会の統治に対しても、それと同じような思想があるんじゃないでしょうか。
 
社畜という言葉がありますが、本当に社員は社畜であると使う側(経営者・資本家)が思っているのならば、ちゃんと家畜らしく丁寧に扱うべきなんですよね。家畜に、頑張れとか、気合を入れろとか言っても、無理なんですから。家畜が心地よく、高いパフォーマンスを出せる状態に、きちんと管理するのは、使う側の問題なんですが、「人(家畜)を使う」ということに、日本文化は慣れていない。だから、頑張れば出来る、という方向にしか行かない。
 
そもそも、会社や資本主義というシステム自体が欧米発祥のものであるから、ベースには家畜文化があって、それには、家畜を正しく扱う、つまりシステムの構築こそが大事であるという思想があるんです。欧米のCEOの給料が、平社員の何千倍であるというのは、そりゃそうですよ。羊と羊飼いに同じ給料を与えるか、という話なんです。羊は、生き延びる程度の干し草を与えていればいいんですよ。
 
一方、日本社会のベースには稲作文化があって、その思想は「平等」です。稲作に強いリーダーはいらないし、皆が真面目に同じ仕事を足並み揃えてやることが重要。リーダーの役割は、皆の模範となること。だから、平社員と社長の給料が同じで構わないんです。そこにあるのは、平等の価値観ですから。同じ給料でたくさん働くというのが「模範」ですから。
 
ただ、そういう思想が、会社や資本主義というシステムにマッチしていない、ということです。大きな組織には役割分担が必要で、平等よりも、上下関係があった方が効率が良い、つまり「強い」んです。日本社会の働き方は効率が悪いのです。で、冒頭の話に戻ると、システムを改善せずに、個人の責任に行き着けてしまうのは、これまた、人は皆「平等」である、という思想です。
 
もし人の統治を、家畜の統治と同じ視点で見たら、問題のある家畜が現れるのは、飼い方が悪いからだ、という考えになるんです。お年寄りの運転による交通事故が頻発している、ならば悪いのは、統治の仕方、つまり法律である、システムである、そういうことです。
 
それは例えば、免許返納を強制化しない法律であり、高齢者に免許返納後の代替サービスを用意しない福祉の問題であり、バスやタクシー以外の個人的な楽しみのために車を運転することを許容する資本主義社会であり、すべての車に衝突防止装置を義務付けないことであり、視認しにくい横断歩道や信号の問題であり、自動運転をさっさと実現しないことであり、とまぁ、いろいろ出てくるわけです。そういう問題の責任追及が面倒臭いし、慣れていないから、「あいつが悪い」で終わらすんです。
 
だって、それが楽でしょう。法律を変えたりする根治治療は大変でしょう。だからやりたくないんじゃない? それよりも、無謀な運転をする年寄りがいる、ひどい、あいつが悪い、上級国民のくせに!って楽じゃないですか。楽な方に人は流れます。自然現象です。本能的な反応です。でも、国のような大きな共同体を運営するなら、本能に従っちゃいけないよね。本能で統治できるのは数百人まで。1億人を本能的に統治できるはず、ないじゃん。
 
僕は、ほとんどの犯罪でも、問題でも、「個人の責任」というのは、そんなに大きくないと思っています。個人よりも、大きなシステムの問題です。貧困があるから、犯罪が起きる。共同体が崩壊したから、犯罪が起きる。家族の時間が無いから、犯罪が起きる。いや、でも同じ境遇の中でも、みんな頑張っているじゃん、という反論が出ると思いますが、それこそ、みんな平等であるという思想なんです。100匹のうち1匹の割合で問題が起きるのなら、それはシステムの問題であると考えるのが、家畜文化の思想です。
 
99匹の羊が「俺らは頑張っている、問題を起こした1匹がだらしない」と思っている一方で、羊飼いは、「100匹のうち1匹が問題を起こすのなら、これは飼い方が悪い」と思うのです。1匹の羊に、いくら頑張れと言ったところで、問題解決にはならない、と羊飼いは思います。池袋の話にしろ、京アニの話にしろ、ある個人を「悪」として切り捨ててしまうことは、問題解決にならないんですよ。京アニの背景に、貧困や家族の崩壊があるのなら、そこも解決すべきなんですよ。それが、正しい羊の飼い方です。
 
──★バックナンバーはこちらから───
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━