和噺

まぐまぐで配信中のメルマガ「和噺」の過去ログです

家畜文化の噺

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
        和噺   
                         R1/09/08
───────────────────
 
僕はヤギやヒツジを飼っていましたが、そもそもなぜ、飼いたかったのかというと。一番の理由は、飼ったことがなかったからですね。飼ったらどんな気持ちになるのか、やってみたかった。
 
他にも、いろいろ理由はあります。単純なところでは、草刈りの手間が省けるかな、とか。まあ、「ヤギを飼えば草刈りの手間が省ける」ってのが嘘だというのは、嫌というほど分かりましたが。前にも書いたかもしれないけど、今日から読み始めた人もいるかもしれないから言っておくと、ヤギ草刈りのためには、ヤギの周囲を柵で囲わないといけないです。しかも、かなり丈夫な柵で。じゃないと、すぐに脱走してどこかに行きます。
 
じゃあ、柵で囲うんじゃなくて、杭を立てて紐で繋げば、その杭から半径何メートルかの草を食べてくれるんじゃないか、と思うでしょう。絡まるんだな、これが。杭に紐が絡まって、全く動けなくなるんだな、ヤギ。じゃあってんで金属製の杭で上部が輪っかになってるやつ(なんて言うんだ、アレ)を地面に叩き込んでやれば、杭の地上部が無いから、杭には絡まらないけど、今度は背丈の高い草に絡まって、草と一体化する。そんな動物です、ヤギ。
 
おまけに、うちのような棚田地域では、崖がありますから。崖の近くで、杭につないだ草刈り放牧をやると、ヤギは馬鹿だから崖を降りようとして、首を吊って死ぬんですね。自殺ですよ。そういうことが起こるから、平地じゃないと出来ない。まぁ、自分で草刈機で刈った方が、はるかに早いし、楽です。
 
でも飼い始めた当初は、そんなことも分からないですから。草刈りの役にたつだろうな、というのも飼い始めた理由ですね。あと、田舎暮らしといったらヤギじゃないですか。なんか、アイコン的な感じがあるでしょ。実際、この意味では役に立っています。うちに来る人にも「ニワトリ見る?」じゃインパクト低いけど「ヤギ見る?」は魅力的じゃないですか。マスコット的な存在としての意味は大きいですね。
 
という諸々の理由が、ヤギを飼い始めた理由の90%です。残りの、あまり人に言えない理由として「家畜文化の思想を体験したい」というのが、ありました。
 
西洋文化って、家畜文化でしょ。まず家畜をベースにした文化があって、その家畜を人間に変換したのが奴隷文化であって、そこをベースにユダヤ教が出来て、派生のキリスト&イスラムが出来て、資本主義と共産主義も出来たってのが僕の考えですから。ってことは、世界の思想のベースには家畜文化がある、と思っているんです。
 
日本は全く家畜文化がありませんから。そこに、大きな溝があると思っています。世界のメジャー文化の中で、家畜が無いのって日本ぐらいじゃないのかな。西洋は当然あるし、中国もあるし、インドもあるでしょう。日本はタンパク源を大豆と魚から得るという、かなりレアな文化ですから。物事を考えるためには、まず家畜を飼わなきゃいけない、という思いが10%ぐらいあって、ヤギを飼い始めたんです。
 
今はね、なんとなく分かっています。家畜文化というものが。まあ、せいぜいヤギを9年ぐらいと、ヒツジを6年ぐらい飼っただけですけど、一般的な日本人よりは家畜思想が分かっていると思う。以下、まとまりない思想だけれども、思いつくままに、家畜文化とは何か、ってことを書き連ねていきますよ。
 
まず、家畜とは人間の道具です。食糧生産のための道具です。また、素材としての皮や骨を得るための道具です。そして、家畜は自然の動物ではありません。人間のために改良された、不自然な動物です。だから、人間なくては生きられないのです。
 
特に、ヒツジはそれが顕著です。ヤギは比較的、野性味を残していますが、ヒツジは人間の世話なくては生きられないような動物です。聖書では、羊飼いと羊(迷える子羊とか)の例えが出てきますが、あの例えにあるように、家畜は人間の導きがなくては生きられないのです。家畜と人間の関係は、そのまま人間と神の関係にコピーされています。自分たちを家畜に例え、神の導きによって正しい方向に向かっていける。そういう思想です。
 
また、人間はすぐに感情移入する本能がありますから、家畜であったとしても、可愛くって、そして殺すのは可哀想なんですよ。食べればお肉は美味しいし、食べないと生きていけないんだけど、食べるのは可哀想。そこを消化する理屈として、家畜は神様が食べ物として作ったものだから、殺して良し、みたいな考えが出てくるんです。あれは、可哀想だなと思ってしまう本能に、なんとか蓋をして、食べやすくするための思想だと思います。
 
動植物は人間が利用していい、と、わざわざ言わなきゃいけないってことは、本当は利用したくない、殺したくない、ってことなんです。世の中の決まりごとって、ほとんどそうであって、言わなくてもやること、また、言わなくてもやらないことを、わざわざ決まりにしないんですよ。「うんこを食べてはいけません」とは、誰も言わないんですよ。だって普通は食わないから。
 
やりたくないけど、やらなきゃいけない(生きていけない)ことをやらせるために、物語があるんです。それが神話や宗教や文化になっていくんです。僕も、ニワトリを殺したり、ヤギを殺して食べたりしていますが、嫌ですよ。普通に殺すの、嫌ですよ。可哀想だもの。そりゃ、ファミチキ買う方が簡単で楽ですよ。だけど、人類のほとんどの時代にファミチキは無かったから、殺さなきゃ食べられなかったんですよ。
 
今は殺さなくても食べられるようになったから、そこで噴出したのがベジタリアン運動だと思いますね。今まで抑え込まれていたトラウマが噴出した状態。日本は、そもそも家畜文化がそんなに無いから、ベジタリアンってピンと来ないんですよ。あれは、何千年と家畜を殺して、その上に成り立ってきた文化の、いわば「心の辛さ」を解消するための行為だと思います。
 
文化ってのは不思議なものでね、その個人が、例えば家畜を殺した体験が無かったとしても、なぜか世代を超えて繋がれていくものなんですよ。超常現象的な集団心理がある、とは思わないけど、おそらく言語とか、マナーとか、いわゆる「文化」の中に、そういうトラウマ的なものを伝える役割もあるんだろうと思う。DNAとは関係なく、完全に文化の問題で。後天的なものです。その伝わり方とかは、よく分からないけれど、何千年と伝わるものが現代も生きているのは確かだと思っています。
 
今後も、家畜文化は学んでいきたいですね。モンゴルの遊牧民の考え方も、深く知りたいし。豚や牛も、できたら捌いて体験してみたいね。モンゴルからハンガリーに至る大草原の遊牧文化、それと中東の遊牧文化の違いはあるのか、とか。アフリカの遊牧文化との違いは、とか。言語体系とも関係があると思うしね。勘だけど、遊牧文化の言語は「主語」が強くなると思うんですよ。
 
漁業とか、狩猟採取をメインにしていたら、「私」の行動よりも、自然環境の方が強いでしょう。一方、遊牧って、自分がどうにか動物を扱えるわけですから、自然の上に立つという考えになる。その場合、家畜を率いる人間の「私」の存在が強くなるから、主語が強くなる。日本語って、主語が弱いんですよ。主語を省略する言語です。「私」や「僕」って、あまり言わないし、シチュエーションによって変えもするんですよ。
 
──【NEWS PICKUP】────────
 
英国でヴィーガン急増も、関係者から衝撃的な発言が
 
ホールフーズっていう、セレブ寄りのスーパーマーケットの社長が、大豆を加工して作ったフェイク肉は健康に良くないよ、と発言。それが英国で物議を醸しているという話。ま、ちゃんとした食べ物を腹八分に、よく動き、ストレスの無い生活をする。健康のための答えってのは、もう出ているんだけどね。加工食品は健康に悪いですよ。それが衝撃的な発言とイギリス人が感じる、ってことが衝撃ですわ。ベジタリアンってのは、キリスト教一神教)の新たな一派ってイメージですね。一神教って、食事制限が好きだからね。
 
──【BOOK REVIEW】────────
 
『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』 金子哲雄
 
ホンマでっか!?TV」等に出演されていた流通ジャーナリストの金子哲雄さんが、肺カルチノイドという病気で亡くなった、その最期の日々を綴った本。41歳という若さで亡くなられたのですが、最期の日々の過ごし方、すごいなと感じました。死を間近にしながらも、周りに対する気遣いを忘れないとか、偉大な人だなと思います。おすすめ。
 
──★バックナンバーはこちらから───
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━