和噺

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吉本の噺

吉本興業の問題について、思うところを書きますわ。この問題はつまるところ、家族の延長線上にあるような集団である吉本興業と、欧米式の会社経営によるタレントマネジメントとの文化対立、という話ですね。
 
本来、日本の会社というか「集団」がどのようなものだったかというと、疑似家族に近いんですよ。社長がお父さん、部長がお兄さん、平社員は赤ちゃん、みたいな。だから年功序列。まあ、ここは厳密な年功序列というよりも、その集団に早く入った者の方が「年上」になるんですね。だけど、普通は似たような年齢で集団に入ってくるから(新卒一斉採用のように)、実年齢が、ほぼイコール、集団での先輩後輩と一致します。
 
その集団は、一度入ったら、最後まで所属します。家族に終わりがないのと同じこと。家族を(結婚とかは別ですが)変わらないのと同じこと。江戸時代に、農家の次男や三男が、商店の丁稚奉公に行く場合は、実家ではなく新たな「家」に入るわけです。
 
吉本興業は、どうも最近の報道を見るに、そのような文化を、良く言えば守り続けいた、悪く言えば引きずっていたのです。社長が「吉本興業はファミリー」とか言ったり、先輩芸人を「兄さん」とか言うのは、象徴的ですよね。
 
さて一方、近代の欧米文化の会社、そして働き方。キャリアアップとかいって転職を繰り返すのも、一般的になりました。そこでは「自立した個人」が、自分の能力と引き換えに対価を得る場所としての会社があります。ですから、社長が外部から「経営のプロ」として来ることも普通です。カルロスゴーンさんみたいな、ね。本来の日本文化から言えば、いきなり他人が「お父さん」として家を仕切り出すようなものですから、その違和感、半端ないです。
 
とはいえ、欧米の文化がそちらであり、その方が経済的な効率が良いのは、確かでしょう。若かろうが、外部の人間だろうが、能力のある人間がトップになった方が、集団は強いに決まっています。そして日本の企業も、今や日本の中だけでぬくぬく生きることは出来ず、世界を相手に戦わないといけない。だから嫌だけど、カルロスゴーンを呼んでくるわけです。まあ、でもやっぱり嫌だったから、追い出しちゃいましたけどね。
 
なんか、最近読んだネット記事では「ゴッドファーザー式経営」から「オーシャンズイレブン式経営」みたいに書いていたのもありましたけどね。つまり、勝手知ったるメンバーを固定したままのチームか、その都度、プロジェクトによってチームを編成し直すか、って話です。日本に限らず、情報化社会になるまでは、人材の流動性が低かっただろうから、どこの国も似たり寄ったりのところはあるでしょうが。それでも、日本は特に「家族経営感」が強い文化だとは思う。
 
その原因は、僕は稲作だと思います。稲作っていうのは、共同作業が絶対に必要なんです。水路を掘って、水を引くというのは、一人でできるものではない。また、田植えも1日で終えなきゃいけないんですよ。じゃないと、生育に差が出るから。一気に水を入れたり出したりする水管理ができないから。だから、田植えは各戸でやるのではなく、村人総出で一気に終わらすんです。
 
麦やトウモロコシは一斉の水管理が必要ないから、自分一人でもできるんです。家畜も、そう。やろうと思えば個人や家族だけで、できる。だけど、米ってのは特殊で、最低でも数十人ぐらいの集団じゃないと、できない。水管理の必要のない陸稲とかは別ですよ。普通の水田のこと。また、これが棚田となると、より共同の土木工事とかが必要になるから、集団の必要性が高くなると思います。
 
まあ、そういうことで日本の集団というのは、麦や家畜をベースにしていた欧米よりは「個人」の重要性が低かった。で、稲作とは関係のない商業とかでの集団の作り方は自由なんだけど、やっぱりその文化のクセってのは受け継がれるようで、稲作ベースの集団の作り方が、現代まで延々と伝えられている、そこから逃れられていない、というのが僕の考えです。
 
競争の激しい業界ほど、効率を求めなきゃいけないから、こういう文化が廃(すた)れていきます。IT業界なんか、若い人がどんどん出世したり、外部の人をヘッドハンティングしたり。逆に競争の少ない業界は、昔の日本文化、日本的な集団の作り方が残されたままでした。その一つが吉本興業ね。
 
今回のニュースでは、反社会勢力、っていうか暴力団ですけど、暴力団との付き合いも問題になりましたが。面白いことに、暴力団っていうのも、数少ない日本的な集団文化を残している団体ですよね。組長のことを「オヤジ」と呼び、先輩は「兄貴」である。そして、集団を変わることは決して許されない。芸能界で、事務所を変わると干されるのは、それと同じです。暴力団が勝手に組を変われないのと、そして家族を変えられないのと、同じことです。
 
あと、吉本興業暴力団の共通点は、どちらも、表の社会でうまくやれない人たちが集まっている集団、ということです。そもそも、芸人もヤクザも社会のあぶれ者なんですよ。既存の社会でうまくやれそうもないから、そういう道にいくのです。で、その受け皿として、吉本や暴力団があるのです。そもそも、既存社会に適応できなかった人の集まりですから、その絆は逆に強固になるでしょうね。
 
なぜ強固になるかというと、人間、なかなか「2つの集団」に同時に所属することは出来ないんですよ。それは「吉本興業」と「渡辺プロ」みたいな話じゃなくて、例えば「家族」と「会社」とかね。会社人間は家族を犠牲にし、マイホームパパは仕事ができない。両立は難しい。で、芸人もヤクザも「家族」や「地域」からはじき出された、そこでうまくやっていけなかった人が多いから、その分、吉本や暴力団への所属意識は強くなる。疑似家族になる。
 
芸人が結婚するとつまらなくなる、っていうのは、家族という集団に属してしまったから、吉本に所属できなくなってきた(心理的に)ってことです。何かで成功するためには、何かを犠牲にしなきゃいけない。幸せな家庭の芸人は、つまらない。(たまに面白い人もいますからね、一般論ですよ。何にでも例外はいます)
 
で、今回の吉本の話は、そういう日本的文化を引きずっている吉本興業に、欧米化のメスが入った、と僕は捉えています。契約書がないというのが問題になっていますが、暴力団も契約書はないだろうし、家族にも契約書がないでしょう。相撲とかはどうなんでしょうかね、無いような気がしますが。でも、本来の日本ならそれで良かったのです。信頼があれば良かった。た
 
日本はいまだ、文化の過渡期なんですよ。明治から始まった欧米化のあつれきは、いまだに続いているのです。あ、言い忘れたけど、欧米式経営の方が「効率」は良くて強いんだけれど、日本式経営の方が「幸せ」だと思いますよ。日本人にとっては。勝手知ったるファミリーで、わちゃわちゃやっているのは、効率が悪いけれども幸福です。だけど、それじゃ戦いに負けるから、変わらなきゃいけない。不幸な話です。
 
吉本を擁護する人と批判する人、お互いが思っている文化のベースが違うんです。お互いに、自分が正しいと思っている。そして、それは本当なんです。文化は、どちらが正しいということも無い。「法律だから正しい」というのも、欧米文化の言い分です。「法律よりも重要なことがある」というのは、日本文化の言い分です。法律よりも、善悪の基準は、もっと根本的なところにあるのです。
 
っていうのが、僕が吉本のニュースを見ていて思ったこと。個人的には、吉本の経営陣は、何がなんでも芸人を守るという姿勢を示さなきゃいけなかったと思うんですが、法律の前に日和(ひよ)りましたね。たとえ法律に違反したとしても、世間から後ろ指をさされたとしても、子を守るのが親の務め、それが伝統的な日本文化でしょう。契約書を交わさないというヤクザな手法をしているのなら、守るのも、ヤクザのごとく身を呈して子分を守らなきゃいけなかったんですよ。
 
だけど週刊誌にすっぱ抜かれたぐらいで、子を切る。それは、欧米式の考え方です。入江さんを速攻でクビにしたところから、間違っているんです。あそこで入江さんを守っていたら、親としての務めを果たしたと、信頼できる親だからと、宮迫さんも正直に話したと思いますよ。信頼できない親には、子供は嘘をつくでしょう。ちょっとのミスで、弟(入江さん)が見捨てられたなら、家から追い出されたなら、そりゃ兄貴(宮迫さん)も怖くなりますよ。
 
吉本がまとまるためには、今からでも、入江さんをも含めて、全てを許すことです。そうじゃなけりゃ、収まらないでしょう。それが、一度はミスしたものの、オヤジの務めです。人間だからミスすることもある。きっと、子供達も許してくれると思います。(ま、それは僕の希望。実際は欧米式に路線変更するんじゃないのかな)