和噺

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愛の噺

何日か前の「因果関係の噺」の中で、「人間の2大特徴は、因果関係と共感性である」と言いました。今日は、その「共感性」の話。平たく言えば、愛の話です。
 
まず、僕が言う「共感性」とか「愛」とは何か。僕は「自我が自己の肉体を超えて拡大することが共感性(愛)である」と思っています。
 
さて。自我とは何か。自我とは行動様式です。ある状況で、自分がどのように行動するのか。そのルールというか、行動様式こそが自我である、と思っています。
 
まぁ、先ほどから「僕に言わせれば」とか偉そうに言っていますが、要は、こういうことと同じことを言っている人がいるかいないかも知らないので、そう言っています。デカルトによればとか、カントによればとか、知らない。だから「僕によれば」と言ってます。
 
と言い訳をしたところで、行動とは何か。行動様式のシンプルなものを「本能」と一般的には言います。アゲハチョウの幼虫を、ミカンの葉っぱの上に置けば、葉っぱを食べる。だけど、リンゴの葉っぱの上に置いても、食べない。
 
ミカンなら食べる。リンゴなら食べない。状況によって、幼虫は行動を変えているわけです。状況を触角だとかいろんなもので感知して、脳(とか神経系)がその状況を分析して、食べるという行動として出力する。インプットとアウトプットを脳が繋いでいる。その脳の判断こそが本能であり、人間の場合は「自我」にもなります。
 
一応言っておきますが、もちろん人間にも本能はありますよ。水の中に顔をつければ、苦しくなってなんとか顔を水から出そうとする。これは「本能」の行動です。いちいち考えませんから。「さて、水の中に顔をつけられて苦しいが、私はここで顔を出すべきであろうか」などとは考えないわけです。
 
ちなみに、僕は「食欲」や「性欲」は本能ではないと思っています。「睡眠欲」は本能ですね。抗えないものだからです。頑張ってコントロールできるものは、僕の定義では本能ではありません。また、人それぞれで違いがあるものも本能ではありません。それらは「自我(集団の場合は「文化」)」に含まれます。
 
まぁ、ミカンの葉っぱを食べるアゲハの幼虫とか、水に顔をつけられたら苦しむ人間とか、そういう、いかんともしがたい「本能」の行動様式があります。しかし、人間や多くの哺乳動物は、ある状況に対して、もっと多様な行動をとります。それが「自我」です。
 
卑近な例で言えば、道端で財布を拾った時に、それをネコババするか、警察に届けるかは、その人の「自我」によります。その「自我」を細かく言えば、倫理観、宗教観、とかも含まれますが、引っくるめて「自我」と、ここでは言いますね。自我とは「自分はこういう時に、どう行動すべきか」という行動規範、ルールです。
 
人間の場合、この「自我」とは自然に生まれるものではなく、身近な家族、共同体の他者、平たく言えば「文化」の影響を受けます。もちろん、そこに「個人の資質」もありますよ。いくら厳格な教えを叩き込んでも、私欲が勝って財布をネコババする人はいます。そのへんは個体差(個人差)があるのですが、個人差の上に、文化の影響を受けて自我が形成されます。
 
自我を作りあげるのに、人間は最低でも十数年かかります。成人になっても自我が組み変わることは多々あります。子供ができたら愛情深い人間になったとか、そういうやつです。おそらく、死ぬまで変化するものです。自我というやつは。自己啓発本みたいな言い方をすれば「人間は死ぬまで成長を続ける」となります。
 
さて。この自我、人間の場合は極端に自由です。フリーダムです。これが人間の最大の特徴です。自我の形成が自由ということは、いかようにも行動できるということです。
 
他の動物を見てみましょう。ニホンザル。あまり知らないけど、おそらくサルの自我は「自己の肉体と自分の子供、時々、群れの仲間」です。なんかリリーフランキーの小説みたいになりましたが。「自分の子供」を守るために戦ったりすることはあっても、よその群れの子供を守るために戦うことは無いのじゃないでしょうか。知らないけど。
 
これが魚ぐらいになると、自分の子供すら自我に含めないんですよ。一緒の水槽で飼っていたら、子供とかも平気で食べちゃうわけですよ。そもそも、魚は卵を産みっぱなしで、あとは勝手にやれい、って育て方ですから(育児放棄!)。自分の子供が目の前をウロウロしているという状況を想定していないわけです。
 
魚の行動規範(本能・自我)は、「目の前にある動くものは食う」ですから、自分の子供であろうと何であろうと、パクリといくわけです。単純に、そういう状況を魚は想定していないだけです。広い海で、自分がどこぞで産んだ子供と、出会うなんて超低確率なことを想定していないだけです。
 
魚で言えば、よく知らないけど、なんか時々、卵を世話して孵化までさせる魚もいるでしょう。ああいうやつが、目の前の子供を食うわけがないんですよ。あの魚は、自分の子供が目の前をウロウロしていることを想定していますから。そういう状況を想定した本能(行動様式)がセッティングされています。
 
まぁ平たく言えば、魚のように「育児」を全くやる必要がない生き物は、「子供」を自我(本能)に含める必要がない。だけどニホンザルや人間のように子育てしなきゃならない動物は、「子供」を自我に含める必要がある。
 
さらに人間は、社会的動物です。群れを作って生きる霊長類です。だから「仲間」も自我に含める必要があります。「仲間のために」という行動様式が生まれます。言い方を変えれば、自分以外の人間に「共感」するということです。さらに言い方を変えれば「他者への愛がある」となります。
 
ざっと説明しましたが、そんな感じで人間は「自我」に「他者」を含みます。まぁ、群れの仲間(家族とか)を自我に含むっていうのは、哺乳動物ではそう珍しいことでもなく、ゾウさんだって仲間が死んだら悲しくって、死体の周りをしばらく離れないとか言いますからね。
 
さあ、面白いのは人間の自我はもっと拡大して、例えば無機物とか、抽象的なものをも「自我」に含められるということです。例えば、ぬいぐるみを決して話さない子供。自我が「ぬいぐるみ」にも拡大していますね。ぬいぐるみを切り裂いたら、子供は泣き叫びます。自分の体が全く傷つけられていないにも関わらず。
 
例えば、神様。無機物どころか概念です。でも、神様のために戦うとか、神様のためにお供えをするとか、人間はするわけですよ。その時、人間の自我には「神様」が含まれています。「神様のために」ということは、「神様」が行動規範の中に含まれているわけです。どういう理由だか、人間はこのような特徴を身につけた。
 
僕は、この能力「犬」との関わりにおいて会得したものじゃないかと思っているんです。犬は、人間以外で、最も共感性の高い動物、言い方を変えれば「自我の枠組み」が非常にあいまいな、緩い動物です。異種の動物である人間に懐いたりするわけです。
 
人間の子供なんかを育てちゃったりもするわけです。んで、「狼少女」が時々、インドの奥地とかで見つかったりするわけです。
 
犬は、最も人間と関わりの深い動物です。4万年ぐらいの歴史があるそうです。農業(1万数千年)よりも、ヤギなどの家畜化(1万年)よりも、はるかに長い歴史を持っている。
 
僕の想像では、数万年前に犬と人間との間での遺伝子交雑があったのではないかと思っています。交尾して狼少女が生まれたって話じゃないですよ。まぁ、獣姦的なことがあって、性病からのウイルス交雑かもしれませんが。(エイズのようにね)
 
獣姦か何かはわかりませんが、近くで暮らしたことによる、ウイルスの媒介による伝染病という形だったんじゃないでしょうか。ウイルスは、感染すると、数多の遺伝子を人間に注入します。人間の遺伝子(DNA)のほとんどは、意味のわからないジャンクDNAと呼ばれています。多くはウイルス感染によります。
 
そのどれかが、犬と人間に共通の部分のどれかが、「共感性の遺伝子」なんじゃないだろうかと思うんです。人間の遺伝子とチンパンジーの遺伝子の一致していない部分の中で、人間と犬に共通している部分に、そういうのがあるんじゃないだろうか。その遺伝子こそが、人間の自我の拡大に寄与したのじゃないかと思っています。
 
まぁこれは与太話みたいに、話半分で聞いてくれりゃいいんですが。おそらく、犬(狼)っていうのは、霊長類よりも社会性の高い哺乳動物です。チームワークでの狩り能力は、チンパンジーよりもはるかに上だと思います。犬は、チンパンジーより社会性がそもそも高いんですよ。
 
で、何かのきっかけで(多分、ウイルス媒介)、犬の遺伝子とホモ・サピエンス以前の人間の遺伝子が交雑し、ホモ・サピエンスが誕生した。その場合、変わったのは「共感性」なので、化石からは違いを判別することはできません。ただ、それ以前の「共感性の枠が硬い」ホモ・サピエンス(ぽい類人猿)と、「共感性の枠が緩い」ホモ・サピエンスは、もう別種です。
 
犬がどーのこーのは僕の想像で何の証拠もない話ですが、何かのきっかけで、人間ぽい類人猿の「共感性」がものすごく発達して(枠が緩くなって)、現生人類のような、つまり我々のような、何にでもバカみたいに、それこそヌイグルミにでも共感してしまうホモ・サピエンスが誕生したんですわ。
 
この変化によって、人類は他の群れ(違う集落の人)にも共感できる、抽象的な概念にも共感できる、という能力を手に入れました。このことにより、交易の発達とかも生まれたのでしょう。それまでの、小さな群れ単位の自給自足生活から、人類が一気に飛躍する能力でした。(交易は、農業や都市の出現に先立ちます)
 
狩猟の効率も上がったと思います。「鳥の気持ちで考える」とか「猪の気持ちで考える」ということが、この「共感性」によって生まれたはずですから。芸術とか、神様とか、そういうのが生まれたのも「共感性」の能力によるものです。人間のすべての能力の中で、一番の特徴は、(おそらく犬からもたらされた)共感性です。
 
さて。長くなったし、あとは適当なことを話しましょうか。最近、新書とかでもチラチラ話題のHSP、ハイセンシティブピーポー。これは、共感性の高い個体、ってことです。簡単に他者に共感してしまう。自我の枠組みが、比較的「自分」にとどまらない。そういうことです。
 
これは単に、比較の問題です。人間であるからには、誰でも他者に共感します。漫画や映画を見て、それを面白いと思うなら、もうそこには「共感性」があります。ただ、それを「自分から離れた物語」と見るか、「自分が物語の中に入り込むほど共感する」かに、程度の違いがあるってことです。
 
そして、昨今のHSPが生きにくいというのは、環境が変わったからです。以前から僕は、人間は狩猟採集生活からアップデートされていないままの脳を持っていると言っていますが、狩猟採集生活の、顔見知りだけの百数十人の生活だったら、HSPであろうが問題ないんです。気持ちが細やかな人として、集落のコミュニケーションの緩衝役になるんじゃないでしょうか。
 
ちなみに、超HSP、神様とすら「共感」を軽々と成し遂げてしまうのが、シャーマンとか巫女さんですね。まぁ、この場合は「複数の自我」っていうのを作れる、というケースもあると思いますが。二重人格、多重人格とか、ね。人間の自我は作り物なので、いくつも持つなんて芸当もできるんですよ。
 
話を戻しますが、小さなコミュニティでは有用だったHSPも、現代社会は「個人」の社会ですから。共感性が低い人ほど、資本主義社会では成功しやすいんですよ。もちろん、全く共感性が無くてもダメですよ。お客さんの気持ちは分かるけど、一方で確固とした自我を持っている人じゃないと、他者に利用されてしまうよ、ってことです。
 
この辺は生まれつきの個人差だと思うので、自我をしっかり持てと言ったところで、どうしようもないと思います。HSPの人は、そういう自分であることを受け入れて、環境を変えるべきだと思いますね。競争にまみれた資本主義社会から逃げ出して、小さなコミュニティに入るとか。そうしたら幸せになると思いますよ。
 
もちろん、これは良い悪いという話じゃないですよ。共感性が高いから良い、もしくは低いから良い、じゃなくて、ただそういうものだということです。絶対的な善悪なんてものはなく、人それぞれ違う物差しを持って、勝手に、あれが良いだの悪いだのと言っているだけのことですから。背が高い低いと同じようなことです。
 
何の話から始まったっけ。愛の話、とかも言っていましたね。愛ってのは、共感性を自己以外にも広めること、自我に他者を含めること、それが愛です。「子供」を自我に含めたら、子供のために生きる、子供のために命を捧げる、という「行動」が出てくる。それを世間一般では「愛」といいます。
 
神への愛だったら、神様っていう抽象的なものを自我に含める、その自我が自分の肉体よりも重要だと判断したら、神のために命を捧げる、となる。「自我は自分の肉体を含めがちー」(自我あるある、レイザーラモンRGさんのやつね)というだけで、自我が自己の肉体を含まないことなんて、よくあります。
 
先ほど言った「子供のために命を投げ出す」なんていうのは、「子供」が「自分の肉体」よりも自我の大半を占めている、ということです。もし「倫理観」が自我の大半を占めており、「自分の肉体」が少なければ、川で溺れる見知らぬ子供を、命を投げうって助けます。
 
また、他者の倫理観が自我の大半を含める場合もある。母親の倫理観のコピー、とかね。母親が自分を愛していない場合、そしてその母親の倫理観(自我・感情)をコピーして自分の自我を形成した場合、自我は自分の肉体を否定します。自傷行為や自殺に至るのは、そういうことです。自我に、自分の肉体を含められていないんですよ。平たく言えば、自分を愛せない。
 
人間が自我に自分の肉体を含めないのは、異常なことでも何でもありません。「人間の自我は自由である(NO RULE)」であるっていうだけで、そこに自分の肉体を含めようが含めまいが、勝手です。ただ、自我に自己(の肉体)を含めないと子孫が生まれないので、文化的に続きにくいから、そういう文化は少ないってだけです。多数派なだけで正常ではありません。
 
僕は、人間の行動は、このように「文化」や「他者」によって作られた自我によるものと思っているから、ドーキンスさんの「利己的な遺伝子論」には納得できていません。結果的に「遺伝子をつなぐ文化以外は残りにくい」というだけで、結果から誤った原因を推論していると思っています。
 
さて。愛。キリスト教は「隣人を愛せよ」っ言いますが、隣人ってのは仲が悪いからこそ隣人なんです。もし、自我に含めているのであれば、それは隣人ではなく家族です。自我の外にいるからこそ隣人であり、そこに共感性を拡大せよ、愛せよ、それが平和に繋がるよ、ってメッセージです。
 
日本と韓国のように、なぜ隣同士なのに仲が悪いのか、なんて言われますが、仲が悪いから別の国なんですよ。仲が悪いから、文化が違うからこそ、そこに国境線があるわけです。もし仲が良かったら、そもそも国境線が無いんですよ。東京人と大阪人は、まぁ一緒にやっていこうと思える程度には仲が良いから、東京と大阪の間に国境線が無いのです。
 
隣同士は仲が悪いのは当たり前。仲が悪いから、隣同士なんです。そこに線があるのです。その線を乗り越えろ、頑張れー、っていうのが「隣人を愛せよ」ってことね。良いこと言うね、キリストさん。天国に行けるよ、たぶん。