和噺

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選挙の噺

選挙も近いし、選挙の話をしてとのリクエストも頂いたので、今日のメルマガは選挙の話です。とはいっても山奥に住む僕ですから、最新の政治情勢とかは疎い。れいわ新撰組ってのを山本太郎さんがやってるよ、っていうぐらいが目一杯の知識です。新「選」組だか新「撰」組だかも、あやふやー。
 
まぁ、そういったNEW!情報は数多のブログやネットニュースを見てくだされば良いことなので。もっと根本的な、そもそも選挙とは、民主主義とは何か、みたいな話をしますよ。Check it out!( ´∀`)←カウントダウンTV気分で。
 
さて。民主主義であるからには、主権は市民にあります。僕が日本国の主権を持っています。って思っている人は、まずいませんよね。でもそうなんですよ。安倍首相でも、天皇陛下でもなく、主権は市民にある。ちなみに天皇陛下は選挙権が無いので(人権が無いってことやね)、僕や皆さんの方が天皇陛下よりも、日本国の舵取りを任されているってことになります。
 
話がいきなり逸れるけど、天皇陛下って戸籍も無いし選挙権も無い。もちろん被選挙権も無い。もうこれって、日本国民じゃないですね。ちなみに名字もありません。名字ってのは、天皇陛下から我々民草に与えられたものですから。ご存知のように、結婚の自由も無い。日本で最も人権侵害されているのは、皇族の方々です。
 
で、憲法の最初に明記されているように、日本は国民に主権がある。「今後、日本はどうしたらいいか」ということを、国民が考えなければいけない。国民にはその責任があり、それを全うしなければいけない。それが、国民主権、民主主義です。
 
とはいえ、私たち、別に「日本」を選んで生まれてきたわけじゃありません。気づいたら日本人でした。なぜ「日本国」の行く末なんか考えなければいけないんや、そんなもの偉い人の考えることじゃねーのか。もっともです。ただの一市民が、そんなことを考える義理なんてありません。
 
昔々は、こういうことは王様の仕事でした。市民は、自分の人生、家族の人生、ぐらいの範囲だけを考えていればよかった。だけど、王様はそうは行かない。もっと大きな目線で、何十万人とか何百万人というスケールでの、集団行動の意思決定をしなければならなかったのです。
 
そのスケールにおいては、個人の生命がないがしろにされることもあります。10人を犠牲にして100人を救えるなら、迷わずそうしなければならないのが王としての判断です。それは、市民とはスケール感の違う判断です。市民にとっては、人間1人の生き死には大ごとですが、それを大ごとと思っているようでは、王の仕事は務まりません。
 
ではどうやって、大きなスケールの判断能力を身につけるのか。それは、自然に身につくものではありません。一人の人間が何百万人を率いるようには、人間の脳みそは作られていませんから。だから、後天的に学問として学ぶことになります。帝王学、そして政治学というのは、こういう需要に端を発します。
 
王様ってのは長年、そういう仕事をしてきた。だけど、今の日本もそうですが、王様がいなくなった。そして国の舵取りを「国民みんな」で決めることになりました。
 
今までは自分の生活のことだけ考えていればよかった国民が、さぁ日本のことを考えなさい、日本はこの先どうすればいいでしょうか、なんて言われたところで、考えられるわけがありません。ですから民主主義には「教育」が必要なのです。
 
2、3週間前のメルマガで「不登校」の話をして、そこで「学校」のことに触れて、そこでこんな話をちょっとした記憶がありますが。学校の本来の役割とは(僕に言わせれば)民主主義のための「国民」を育成することです。あなたは日本国を率いる義務があり、そのために勉学に励み知識をつけなければいけない、ということです。
 
民主主義で国を運営するのならば、それは絶対に必要なことだと思うのですが、もちろん今の学校はそんなこと教えちゃいません。「よく考えて投票しましょうね。選挙には行きましょうね」と言うぐらいです。俺が日本の行く末を背負っている、なんて気概を持って投票していたら、頭おかしーんじゃねーのと思われるのがオチです。
 
そりゃそうですよ。だって、僕の1票で選挙が左右される確率なんて、限りなく0に近いですから。経済的な行動判断(自分の行動が、どれだけ自分の利益になるか)でいったら、選挙には行かないのが正解です。その間、たとえ10分でも20分でも仕事をしていた方が、よっぽど自分の利益になります。
 
「教育」しなければ、人間はそういうように判断します。選挙なんて面倒くさいから行きません。だから、民主主義で国を運営しようというならば「教育」が不可欠なんですよ。学校でガチガチに「民主主義信者」を育てないといけない。だけど現状、そんなことをやろうという風潮もない。民主主義の大いなる矛盾があります。
 
その矛盾とは、まとめると、主権を担うべき国民が、主権を担っているという意識が無い、ってことです。選挙に行く人も、大半は、自分勝手な「個人的な」判断をしている。どうしたら自分の生活が良くなるか、ぐらいの判断でしかない。
 
本来は主権者は、王様のように(あくまで「良い王様」を想定していますが)、自分のことではなく、もっと大きなスケールの判断をしないといけない。主権者は「自分の生活」ではなく「日本という大きなグループの舵取り」として考えなければいけないんです。そこでは、個人的な利害と、日本の利害が、矛盾することもあるでしょう。
 
例えば、僕は「日本は憲法9条は変えず武力は保持すべきではない」という考えですが(このことは、また別の話で)、そうすると「じゃあ戦争が起きたらお前はどうするんだ」というツッコミが出てくるでしょう。
 
そこで僕が「そりゃ逃げる」とかいったら、無責任だとか、そういう批判になるわけです。これは「日本」の判断と「個人」の判断を、ごっちゃにしていることから出てくるのです。僕は「日本」の利益のためには「9条を変えずに武力は保持すべきではない」と考えていますが(繰り返すが、この話はまたいつか)、「個人」としては、戦争が起きたら怖いから逃げます。
 
このように「個人」のスケールと「日本」のスケールの話では、矛盾が出てくることは多々あります。もっと小さな例で言えば、僕は横断歩道が赤でも、明らかに安全な時は渡りますが、かといって「横断歩道が赤でも自己判断で渡って良い」という法律を作れ、とは思いません。
 
「日本」としては「赤信号は渡ってはいけない」という法律を作るべきであり、個人としては「自己判断で渡る」としています。もし選挙で赤信号のことが争点になったら、僕は「赤信号は渡ってはいけない」に投票します。僕は、自分の赤信号渡りの能力には自信を持っているけれど、みんなに勧めるものではないからです。
 
さあ、話が長くなりましたね。つまり、民主主義における投票行動は「日本」というスケールで考えなければいけない、ということです。個人の利害で判断するのは民主主義的ではないと思うし、少なくとも、「日本というスケールで考えましょう」という「教育」がなされた上での話でなければいけない。
 
しかし、民主主義教育がなされないままに、皆が勝手気ままに投票する。消費税が上がると困るから。年金がもらえないのは困るから。「日本」のスケールではなく「個人」のスケールで判断します。こういうのを、衆愚政治といいます。
 
教育なき民主主義が最終的に陥るのが、これです。となれば選挙は必然、人気取り合戦になります。耳障りの良いことを言う人が人気を集めます。また、それ以前の本能的な判断として、かっこいい人、有名な人(知っている人)、物事をはっきり言うタイプの人、そういう人が人気を集めて当選します。
 
そのような状況下で、真面目に「日本」のことを考えて1票を投じたところで、その利益が自分に返ってくることは、まず、ありません。でも、そうしなければいけない。民主主義ならば、国民はそのように考え行動しなければいけない。そのための教育がなされなければならない。それが民主主義の根幹ですが、まぁ、誰もそんなこと思ってもいませんわ。
 
ただ一縷の望みとして「みんなの意見は案外正しい」という事実があります。これは不思議な現象で、例えば「ザトウクジラの体重は何キロ」みたいな、普通は誰も知らないような問題。こういう問題を、いろんな分野の「知識人」に答えてもらっても、なかなか正解に近い数字を出す人はいません。
 
だけど、そこらへんにいる人、何百人とか何千人にこの問題を出して、その平均値をとると、不思議と正解に近くなるという現象があります。「知識のある個人」よりも「何の知識もない大勢の平均値」の方が、ずっと正しいのです。だから、教育されていない民衆による衆愚政治であれども、そう悪い結果にはならないのじゃないでしょうか。