和噺

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因果関係の噺

人間(ホモ・サピエンス)という動物が、他の多くの動物より優れているーー優れていると言うと、それは人間の「価値観」が反映されてしまいますから、単に「特徴」と言ってもいいのですが、まぁ「特徴」として「因果関係の予想能力が高い」ということが挙げられます。
 
AならばBである。こう予想することが因果関係です。もちろん人間以外の動物でも、こういうことは出来ますよ。パブロフの犬ですわ。ベルが鳴れば、餌がもらえる。「AならばB」という因果関係を覚えるから、犬はベルが鳴ればヨダレを垂らすわけです。
 
人間はこの能力が、多くの動物よりも高いです。で、人間は人間が一番偉いと思っているから、因果関係を理解する動物を「知能を持っている」とします。チンパンジーとか犬は、AならばBを理解しないカブトムシよりも知能が高い、ということになります。
 
この能力は、人間の生存に役立ってきました。ここを毎日イノシシが通るから待ち伏せしよう、となるわけです。すると狩りの成功率が高くなる。
 
もちろん全ての狩りが成功するわけではありません。一昨日と昨日は通っていたのに、今日は通らないかもしれない。自然界というのは複雑な体系であり、人間の知能ではAならばBを全て理解することはできません。イノシシが通ると思ったのに、通らないこともあるわけです。
 
不可解なAならばBを抱えたまま生きていくのは、辛いのです。不可解なBに対するメジャーな回答が「神様」です。神様の機嫌が悪かったから、イノシシは通らなかった。神様の恵みで、雨が降った。因果関係の方程式、AならばBを完成させるための万能解が神様です。
 
ちなみに、このAならばBを予想する能力は、一般に男性の方が女性よりも高いです。将棋や囲碁って男性の方が強いでしょう。あれは因果関係推測ゲームですから。この性差の根っこには、男性は一般的に集落を離れて狩猟を行い、女性は集団内でのコミュニケーションを行ってきた、という何万年の歴史があるんじゃないでしょうか。
 
自然の中での狩猟も、確実にAならばBが成り立つ世界ではありませんが、「人間の感情」に比べたら、まだ比較的、成り立つ世界です。人間同士のコミュニケーションは複雑であり、AならばBよりも、その場その場で反射的に対応した方が良いケースが多いです。だから、男性から見ると、女性は考え(AならばBの予想)が足りないように見える。
 
一方、女性から見れば、AならばBなんて無機質な法則を人間関係に持ち込む男性が、なんと人の気持ちが分からない野郎であるか、となるわけです。機嫌が悪い時にはケーキを買ってくれば何とかなると思ってやがる、と思うのです。そして男性は、AならばBの法則が成り立たない女心を理解できずにいるわけです。女心と秋の空。どちらも因果関係の予想がつかないってことです。
 
そして、将棋や囲碁よりもAならばBが成り立つ世界、それが数学です。数学は最も美しい学問である、なんて言われるのは、AならばBが完璧に成り立つ世界が楽しくてしょうがないんでしょうね。現実世界はそうはいきませんから。理系の中でも、理論屋と実験屋の対立は、ここに端を発します。机上の空論、というやつです。
 
さて。そんなこんなで人間に備わっている因果関係推定能力、AならばB、風が吹けば桶屋が儲かる。良いことばかりではありません。副作用もございます。死が怖くなります。
 
AならばBという推論能力は、必然、大きな疑問を生み出します。死んだらどうなるのか、ということです。AならばBの、Bが分からない。死んでみりゃ分かるんでしょうが、死ぬ前に分かりたいんですよね。こんなことを昔から人間は一生懸命、考えます。
 
大きな解決法が2つありました。AならばBのBを、強引に設定しちゃう。死んだら天国に行くとか、最後の審判があるとか、そういうやつです。キリスト教は、この解決法ですね。そうか、Bなんだ、と安心するわけです。先ほど言及した万能解「神様」の登場です。
 
ただ残念なことに、どうも聖書って嘘なんじゃね、神様とかいないんじゃね、という不信心な輩が科学の発達と共に増えてきたので、この物語は求心力を失いつつあります。失うのに比例して、死への不安は増していきます。逆に、宗教の熱心な信者に自殺者が少ないのは、そういうことです。その物語の中にいれば、安心感が得られるのです。
 
んで。もう一方の解決策は、そもそもAならばBなんて考えるなという方法です。AならばA、ただそれだけを考えれば死なんて恐るるに足らず、という解決策ですね。仏教がこの解決策を取りました。でも難しいんですよ。AならばBと考えるのは人間の本能ですから。
 
だから仏教も、これじゃみんなに理解できないよね、っていうんで「南無阿弥陀仏って言えば極楽に行けるよ」っていう、お手軽な「AならばB方式」を採用する一派も現れました。キリスト教的な考え方ですね。このほうが因果関係の本能を封じないまま理解できるので簡単です。だから広まりました。
 
本来の仏教的な「AならばBと考えないようにしようね」という思想は欧米文化に取り込まれて「マインドフルネス」になりました。目の前のことに集中すれば不安はなくなるよ、という思想です。
 
話のスケールをググッと縮小して、現代日本に生きる我々の事情を考えれば、実はAならばAという、ある意味、先を考えない享楽的な生き方、言い方を良くすればマインドフルネス的な考え方は、今の時代、この国では、結構有効です。
 
なぜなら現代日本、かなり豊かです。食べ物にあふれ、空き家もたくさん。衣食住に困ることはありません。原始社会のように、AならばBの感性を研ぎ澄ませて生きなければならない環境ではないのです。死ぬ心配がないのだから、先のことは心配せずに、やりたいことをやっていても、意外と何とかなるものです。
 
だけど、普通の人はAならばBと考える。そんなことをしたら大変だ、会社を辞めたら生きていけない、と考えるんです。そして、そこにもう一つの大きな人間の特徴である「共感性」が働くことによって、そのBが現実(本当は共同幻想)であるかのように思い、動けなくなるのです。
 
共感性の話は、これも長くなるし、今日書くのは面倒くさいのでまた今度にしますが、こいつも人間の特徴的な本能です。僕は「因果関係」と「共感性」が人間の二大特徴であると思っていますが、現代社会では、逆に「因果関係」と「共感性」の本能に蓋をした方が生きやすい(経済的には成功しやすい)という世界です。
 
変わりゆく世界に人間の本能が追いついていない、アップデートされていないのです。「感性をアップデートしろ」なんて言う人がいますが、そんな簡単に変われるものじゃないんですよ。変わらなきゃ、で変われるんだったら誰も苦労しないよ、って思いますね。
 
大体、人間はまだ「農業」にも適応していないというのが僕の考えですから。狩猟採取は楽しいですけど、農業は苦しいんですよ。農業の発明以来、1万年ぐらい経っているのに、まだアップデートされていないんですよ。それが「情報化社会」にサクッとアップデートできるかい、って話ですわ。
 
じゃあどうすんねん、っていうと、幸福にはならないかもしれないけど、頑張って「因果関係」と「共感性」の本能に蓋をして生きて経済的に成功するか。それとも本能の赴くまま、いろいろな心配をし、みんなと一緒に、ある意味、安心する不安感を抱えながら生きるか。それとも、いつまでもアップデートされない人間に、このアップデートされ続ける社会を合わせるのか。
 
僕としては、最後の道が一番、みんなが幸せになる道じゃなかろうかと思うんですけれどもね。どうでしょうかね。また明日。