和噺

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人間集団の噺

昨日の見張りおじさんの話の、続きのような話。

この9年間、草刈りとか木を切ったりとか本を読んだりとか、まぁ山奥で普通に生きていたのですが。その結果、至った考えが「人間は集団的な動物である」ということなんです。

デカルトの「我思うゆえに我あり」から始まる西洋哲学の歴史、そしてそこから派生している心理学とか、いわゆる人文科学といった「人間の学問」は「個人の学問」なんです。最小単位が「個人」であり、「私」がどう思うか、どう感じるかってのが問題になる。でも、そもそも、人間の最小単位は「個人」ではないのではないか、と思うんですわ。

例えば。アリとかハチのような社会的昆虫。彼らの最小単位は「巣」ですよね。何万匹の「アリ」が、一つの生命体を形成していると考えるべき存在です。

働きアリ一匹を見たって、何もわからないんですよ。生殖能力、無いし。あれは、アリという大きな生命体の指先みたいなものですよ。アリ一匹でアリの全存在であるわけではない。女王アリもそうです。女王アリは、大きなアリという生命体の卵巣部分、みたいなものです。

いろんな生命がそうだと思うんですよ。また、種を超えたところで、そういう繋がりを持っている生命もいます。

ある特定の花の蜜を吸うハチドリ。ハチドリはその花の蜜しか吸えないし、その花はハチドリがいなくては受粉ができない。こういうのは、僕は「ハチドリと花」で一つの生命体である、と考えるべきじゃなかろうか、と思う。どちらも、どちらかが無くなったら存在できない。

まぁこれを拡大していけば、全ての生命体に関係性があると思うので、突き詰めればガイア説みたいなやつになるんでしょうけれども。(地球が一つの生命体であるって話)

そういう風に話を持っていくと、スピリチュアル的な感じになって好みじゃないし、ピンと来ないので。今のところは比較的小さなつながり。アリやハチのように、同種の中での個体を超えた大きな枠としての「生命」という単位とか、ハチドリと花レベルの比較的がっちり感の高い結びつきのみに、とどめたいと思います。

また、逆に細かい方に視線を移すこともできますけどね。人間を構成している細胞は、それ自体で一つの生命体であるし、腸内細菌みたいなやつ、これも人間の体内でしか生きられないし、母から子へとつながっていく(細菌が世代を超えて移住していく)。「個」という生命体も、生命体の集まりである。まぁ、その話はまたいつかすると思います。

さて、逸れた話を戻しますが。人間のこと。僕って人間だからアリやハチドリより人間のことに興味があるんですよ。

人間の最小単位が「個人」ではなく、もっと大きな集団であろうってこと。最近話しているように、150人とか、多くても数百人ぐらいの人間集団が、人間の最小単位なのではないか、という思いがあります。

150人の集団の中で「頭」の役割の人がいて、「手」の役割の人がいて、「口」の役割の人がいる。人間のDNAって、そういう具合に出来ているんじゃないか。なのに、現代社会では「核家族」とか「個人」のような、ものすごく少ないメンバーの集団しかないことが、いろいろな問題とか苦しみの根本にあるんじゃないか、という思いです。

どっから説明したらいいか分からないから、適当に説明しますよ。

まず人間のDNAってのは、一世代の更新が30年ぐらいかかるから、ショウジョウバエのようにそう簡単に変化しない。ホモ・サピエンスがアフリカで誕生して10万年くらいですが、農業が誕生したのが1万年か2万年前。家畜も1万年くらい前。4万年くらいの歴史がある「犬」は、かなり人類の性格形成に大きく関わっていると僕は思っていますが、それもまた別の話。で、産業革命はたかだか数百年前です。

人間のDNAってのは、いまだに狩猟採取世界を想定しています。その頃の人類と、今の人類はDNA的には同じでしょう。現代の赤ちゃんを5万年前に持っていっても普通に育つだろうし、逆もまた然り。つまり人間のDNAの想定している「世界」はそういうものであり、また、人間のDNAが想定している「人間関係」もそういうものである、ってことです。

「世界」の話からしましょうか。食べ物の話。甘いものや脂っこいもの、美味しいですよね。大体の人は好きですよね。で、食べたいだけ食べると太って病気になりますよね。

なぜ健康に悪いのに、我々は甘いものをたくさん食べしまうのか。それは、人間のDNAは「世界」に甘いものが溢れていると想定していないからです。人間のDNAが想定する「世界」に存在する甘いものは、よく熟れた果物とか、蜂蜜とか、その程度のものです。いつでも腹一杯たべられるものではない。滅多にない高栄養価のものだから、そういう世界の中では、甘いものは際限なく食べることが生存戦略として正しい。

砂糖が1キロで198円、みたいな世界を人間のDNAが想定していないから。甘いものを簡単に際限なく食べられる世界を想定していないから。甘いものを際限なく食べろという命令が下されるのです。人間のDNAが想定している世界と、現実世界の齟齬です。ズレているんです。人間のDNA(体や脳)は、いまだに狩猟採取世界に最適化されています。

まぁ、食べ物はそんな感じなのこと。甘いものは、食べ過ぎないようにしましょう、という当たり前の話になります。さて、人間関係の問題ですわ。人間のDNAは「甘いものがそんなに無い世界」を想定しているが、同じように、周囲の人間関係としてどのような世界観を想定しているのか、という問題です。

おそらく、人間のDNAは150人くらいの集団が、生まれてから死ぬまで近くにいて、生活を共にしているという人間関係を想定しています。それが、「人間は集団的な動物である」という意味。「個人」という単位を、人間のDNAは想定していないと思う。そして、そのDNAの想定している世界と、現代社会とのズレが、いろいろなストレスの原因になっているだろう、と思うのです。

甘いものを食べ過ぎて太るのと同じように、何千人もの人間と出会うこと、また逆に親しい人間が10人くらいしかいないこと(本来は150人ぐらいいて然るべきなのに)というのは、ストレスになっているはず。(まぁ、親しい人間が10人いるというのは、現代社会ではすごく多い人数だと思いますが)

「甘いものやファミチキばかりを食べるのは健康によくない」のと同じレベルで、孤独だとか、核家族だとか、SNS疲れだとか、その辺の人間関係の問題を考えるべきなのです。そのベースとなるのは、繰り返すけど「人間のDNAにとって最適な人間関係はいかなるものか」というのを考えること。

やりたいことだけをやるってのは、甘いものばかりを食べるのと同じことです。人間の欲望は、ある程度、充足されない世界観を前提としている。蜂蜜や果物を無限に食べられないように、欲望は「世界」によって制限されます。というか、制限されると想定している。その制限がなくなると、身体の方にしわ寄せが来る。甘いもので太るのは、そういうことです。

その欲望を正当化し、全てを叶えようとするのが資本主義です。資本主義の世の中は、欲望の否定が無い。SNSとかの問題は、人間関係の欲望のブレーキがぶっ壊れた結果です。

本来だったらブレーキとなる「世界の制限」を、IT技術が取り払い、その欲望を資本主義が正当化した結果、人間の身体(精神も含める。脳は身体だからね)にしわ寄せが来ている、という流れです。欲望は、世界に制限されなくちゃいけないんです。人間の幸福のためには、ということね。人類社会の発展というレベルの話は、また別の物差しですわ。

先ほどからDNA、って言ってるけど、これは「脳」と言った方がいいかもしれないですが。まぁ、脳の機能の問題なんですよ。思考とか理性とか欲望とかってのは、脳の「機能」のこと。胃や腸の「機能」が消化、というのと同じです。この脳の機能がDNAによって規定されているということです。で、繰り返すけど、脳が想定している世界観は、人間が集団で生きている世界観です。

すいませんね、個人と集団の話が、DNAと世界のずれの話にずれちゃいましたが。まぁ、思いつくままに書いているので、こういうこともあります。暖かい目で見守ってください。

例えば育児の話。ワンオペとかいうレベルじゃなくて、おそらく人間にとって正しいのは、集団で集団の子供を育てるって形です。保育園って話じゃないよ。150人くらいの集団のうちの、数十人の大人が、20人くらいの赤ん坊(4歳以下くらい)を育てる、っていう形態が基本じゃないかと思います。もちろん、文化によって違いはあれど。

そういう形態を人間の脳(DNA)が想定しているってことは、それが一番「楽」であり「幸福」であるということなのです。何が言いたいかっていうと、現代社会の想定している母親一人、もしくは両親のみでの子育てなんてのは、ストレスフルなことです。

そして、保育園や学校に何十人の同世代の子供がいるというのも、おかしい話。まぁ、現代社会では子供に発言権は皆無ですから、泣こうが叫ぼうが保育園に閉じ込められるんですが。そして、社会がそれを良しとする前提で成り立っているから、みんなもその物語を補強します。保育園に預けられない問題はあっても、保育園に預ける問題、なんていうのは表面化しない。2歳児に発言権が無いからね。

人間はその物語(文化)に合わない感情は閉じ込め、その物語に合う感情(母性本能とか)を、多少の自己欺瞞も含めて、外部(他人、その文化の構成メンバー)と共有します。だから本質がすごく分かりにくい。本人でも気づかない。まぁでも現代社会の疲れた方々を見ると、そろそろ物語の更新時期じゃないのかなと思います。

ってのが、簡単に触れた育児の話。なんか堅苦しい話になったから、明日はどうでもいい話をしますよ。ではまた。チャオ!